心理的な被害
平成7年(1995年)1月17日早朝。
「あなた、病院から来てくださいって言われたわ。」
妻の陣痛が始まって2時間が経ったころであった。出産のための入院準備は済んでおり、私がバックを持ち妻と共に階下へと降り玄関で忘れ物はないかと最終確認をしている時、義母が心配して見送りに来てくれた。息子は、2階でぐっすり寝ていた。義母が、
「カメラは用意したの。」と聞くと、妻は、静かに首を横に振った。
「カメラは、2階の寝室ね、取って来るわ。」
義母が2階にカメラを取りに行っている間に荷物を車に載せようと、私は、バッグを持って玄関に出た。まだ、5時45分過ぎで外は暗かった。玄関灯の明かりを頼りにワゴン車の後部ドアを開け、バッグを車に積み込んでいる、その時、大地が揺れた。まるでトランポリンの上で跳ねているように、上下に大きく揺れた。玄関灯、外灯の明かりは消え、車内灯の明かりだけが微かに点いていた。まず、妻と胎児の安否が気遣われた。大きな揺れは、上下運動に加え横揺れもあり、身動きはできなかった。
「おい大丈夫か。何処にいる。」
「玄関よ」との妻の声が聞こえた。しかし、助けに行くこともままならない、ジレンマが私を襲う。息子は2階である。どれくらいの時間、揺れていたのだろうか。多分40秒くらいだろうと思われるが、あれ程激しかった。揺れが沈静化した。幸いなことに我が家は倒壊を免れ、私は、家族の安否を確かめた。妻は、蹲っていたが大丈夫であり、息子は、義母が布団を被って抱きかかえていてくれていた。箪笥の上の人形ケースが落ちガラスが飛び散っており、義母の咄嗟の判断がなければ、息子は、大怪我をしているところであった。家族が、それぞれの安否を確かめているその瞬間も大きな余震が容赦なく、家族の心を恐怖へと導いた。
5時47分、大地が大きく震え、人類の繁栄をあざ笑うように阪神・淡路地区を壊滅状態にした時間である。
カーラジオをつけてみると、阪神地区で震度7の大地震が発生、建物の倒壊が至るところで起こり交通網が遮断されているとの情報を得る。その頃になると空も白み始め明るくなるにつれて落ち着きが出てきていた。
「とりあえず、避難場所に行こう。」との言葉に家族は、同意し、息子の小学校の運動場へと歩を進めた。前の家の瓦が道路に散乱しているため、それを避けながらの移動である。もし、あの時、車を動かしていたら、この散乱している瓦は、家族の乗っている車に容赦なく降り注いでいただろうと想像すると寒気さえ感じた。
小学校の運動場には5分間くらいでたどり着いた。不安を隠せない地域の人々が500名くらいは集まっていた。立ち話に熱中している者、周囲を見渡している者、様子を窺っている者などなど様々であった。しかし、寒空の運動場に集まっているだけで校舎が開放されるわけでもなく、誰かが陣頭指揮を執ったり情報を伝えたりする訳でもなく、只の烏合の衆であった。妻の陣痛は、継続しており一刻も早く病院へ行くことが私たちに課せられた急務であり、それは家族の一致する意見でもあった。
「公衆電話を探し、救急車を呼びましょう。」義母の発案に素直に応じ私は、自宅へ戻り車で家族を迎えにきた。
近所にある郵便局の前に公衆電話があるので、そこへ車を走らせ、妻の通っていた元町の産婦人科へ電話を入れるが、何度かけ直しても繋がらない。途方に暮れていると、赤い緊急用電話が目に入ってきた。これを使ってみようと思った瞬間には、もう1・1・0とダイヤルしていた。しかし、緊急用電話ですら不通であった。
「電話は一切繋がらない、この状況であれば元町まで行くのは危険だろうね。たどり着いても病院が機能しているとの保証が確認できないからね。」
と私の話に、渋々妻は納得した。と言うのも妻は、元町の産婦人科で産むことを楽しみにしていたからである。そこは、父親立会いの出産、母子同室システムであり毎朝の礼拝もあり、とても気に入っていたからである。もう予約金も支払い済みであった。
「とりあえず、長男を産んだ○○産婦人科へ連れて行って、もうお産は、扱っていないけどアドバイスは、貰えると思う。」との妻の判断は適切と考え、車を走らせた。
老年の医師は、在宅であり私たちも名前は知っていた総合病院を紹介してくれた。 私は、妻に再確認をした。「元町の病院は諦めて、先生の紹介してくれた総合病院へ行くよ。」妻は、実に残念そうではあったが「いいわ」と了承の返事をした。
私たちは、総合病院へと急行した。何とか駐車スペースがあったので車を停め、病院の中へと急いだ。そこは、患者で溢れていた。呻き声を上げている者、血だらけの者、医療スタッフに一生懸命相談している者等々、目前に展開している状況は、非現実的な世界であった。「子どもは無事に生まれてくるのだろうか。」漠然とした不安が家族を襲った。
受付カウンターは、混乱していた。五人ほどの人が、それぞれ、
「急患だから早急に診察してくれ」
と訴えていた。私は、しばらく様子を見て待っていたが、受付の職員も対応が追いつかず、てんてこ舞いの状況であり、受付の後ろで薬の調合をしている職員に大声で、「妻が陣痛なんです。どちらに行けばよろしいですか。」
と訴えた。職員は、こちらに振り向き、
「二階に上がってください。」 と教えてくれた。その旨、妻と祖母と長男に伝え、私たちは、妻を気遣いながら二階へと歩を進めた。階段は、まるで廃墟になったビル階段の様相を呈していた。壁や床は、いたるところ崩壊しており、壁や天井から落ちた埃が敷き詰められていた。私たちは、瓦礫を避けながら、二階へと上がり、分娩室に急いだ。分娩室は、更に悲惨な状況であり、医療器具や医薬品が床中に散乱していた。二組のお産が一枚の薄いカーテンの向こう側で進行中であり、看護婦や助産婦が駆け回っていた。カーテンレールが天井から下がっておりカーテンによって三つの分娩台が仕切られていた。その内の一つに妻は、座った。祖母や長男は、分娩室内に簡易的に置かれたソファーに座り、私は、妻と共にカーテンの中で処置を待った。妻は、時折やってくる陣痛に顔をゆがめることもあったが、私は、それを見守るだけであった。
この総合病院では、ラマーズ法の講習を行っておらず、本来は、亭主が分娩室に入ることはないのだが、この時ばかりは、普段の規定が崩壊している緊急の状況であった。
「奥さん、下着を下ろしてください。」
と看護婦が声を掛けてきた。「あぁ、やっと診てくれるんだ。妻も陣痛の苦しみから解放されるんだ。」と言う安堵感が夫婦を包んだ。別の看護婦が、忙しそうに真鍮の洗面器を運んでくると、その中に消毒液の原液を入れ始めた。私は、何が始まるのかと、様子を見ていると、看護婦は、おもむろに分娩に使用する器具を洗面器に入れていた。この時の病院の機能は、電気やガス等のライフラインが完全に遮断されていたのである。唯一、水だけは、病院の地下に井戸があり、そこから汲み上げることができたが、それも久しぶりに使う井戸であり水量は、ごく僅かとのことであった。カチャカチャと不気味な金属音が分娩室に響いた。器具は、消毒液の中で不気味に輝き、それに見とれているとき、医師がやってきた。
「はい、力を抜いてください。大きく息を吸って、はい、ゆっくり息を出してください。」
医師の診察は、あっと言う間に終わり、
「まだ、時間が掛かりますね。」 と言って、他の患者のところへ行ってしまった。
天災によって両親を亡くし、児童養護施設に措置される子どもたちもいます。天災による被害は、物質的なものに止まらず心理的な被害が伴います。それがトラウマとなり長い期間、子どもたちを苦しめます。例えば、微震があったとき、それを敏感に感じ取り、心臓が圧迫されているかのような錯覚を覚え、鼓動が激しくなります。そして、不安が覆い被さってきます。このような体験は、大地震を経験したほとんどの方が味わっています。
トラウマは、天災等の災害だけに止まるものではありません。親に見放され裏切られたという失望感、経済的に恵まれていたらという失意間、学校の授業についていけないという絶望感等々、様々な現実が子どもたちに襲いかかり、それらに立ち向かい乗り越えられる子どもたちもいれば、乗り越えられずトラウマになる子どもたちもいます。
子どもたちの心の傷を発見し癒す努力と回復する支援を行うことが求められています。
情報0の弊害
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒、M7.3の大地震が兵庫県南部で発生した。阪神・淡路大地震です。死者、6,434名 行方不明者、3名 負傷者、43,792名、都市直下型で未曾有の被害をもたらした大地震でした。
そして、その日は、妻の出産予定日でもありました。結局、次男が生まれ出たのは、翌日になりました。胎盤剥離で母子ともに危険な状況での誕生でした。胎盤剥離は、文字通り、胎盤が剥離し出血を起こします。羊水で生命を維持している胎児にとって、羊水の中に血液が侵入してくることは、小石のような異物が侵入してくることに等しいのです。実際、生まれ出た次男の内臓は、傷だらけで、口からミルクを与えることはできず、小さな身体に針を突き刺し、点滴によって栄養摂取を行うことになりました。
私たちが病院に到着し、次男が誕生するまでの時間は、24時間くらいでしたが、その間、同じ看護婦さん、同じ助産婦さんが、妻を含めた5名の妊婦を看ていました。私は、看護婦さんに聞きました。
「あなたは、他の看護婦と交代もしないで、ずっと勤務しているが、あなたのお宅は、大丈夫なんですか。」
「私の家は、倒壊しているようです。でも、大丈夫、家族は、何とか生き延びているようなので安心しています。」
「それでも家族が心配でしょう。帰らなくて良いの。」
「今、私を必要としているのは、多分、家族より、この病院でしょう。看護婦のほとんどが被害を受けていて、今、ここにいる看護婦だけが、唯一、勤務できる看護婦なのです。」
この看護婦さんの言葉は、実に的確でした。この究極の状況の中で自分の存在価値を認識し、居場所を決めて、自分の能力を精一杯発揮しているのです。
次男の誕生後、妻と義母を、「救援活動のため職場に行ってきます。機能回復していないと言えども病院ですので安心です。」と説得し、私は、職場へと向かいました。それから約1か月、私は、自宅の布団で寝ることはありませんでした。
職場に到着すると、そこには、施設長を含め5名の職員がいました。電話に張り付いています。利用者の安否確認です。ところが、ほとんど、通話不能で安否が確認できているのは、5名程度でした。
私たちは、翌日19日より、家庭訪問で安否確認しようと打合せを行いました。その夜から職場の冷たい床にセラピーマットを敷いての就寝です。「仕事はどうなるのだろう。生活はどうなるのだろう。」など、先行きの不安を抱えながらも「今やれることを精一杯やるだけだ」と自分を納得させて眠りに就きました。
翌日、車で被災地の中心部に向かいました。鷹取地区は、まだ、燃えており、消防車が何台も活動していましたが、放水ホースから飛び出る水に勢いはありませんでした。道行く人の目の焦点は一応に不安定で、次に何を成すべきか目的意識を見失っている状況でした。
そんな、街の一角に立ち止まり、周囲を見回した時、涙があふれ出ました。周囲360度、すべてが破壊されています。特に鷹取地区は、焼け野原です。燃え尽きた家の前で呆然と立ち尽くす人が何組もありました。斜めに傾き、今にも崩れ落ちそうなビルも何棟もありました。大地震は、建物や家財道具など物質的な価値を消失させただけではなく、人々の生気までも、ずたずたにしていました。
この日は、体育館に避難していた2組の利用者家族の安否が確認できました。広い体育館に大勢の人々が、段ボールを敷いて、座っています。支給されたサンドウィッチを頬張っている人、毛布にくるまって寝ている人、おしゃべりをしている人、様々な人々の中から目的の人を探すのは、大変な作業です。しかし、意外と簡単に見つかりました。それは、立っている人が少なく、皆さん、座っている状態なので全体が見渡せるのです。
被害の状況を聞いてみると、家は、2階部分が崩れて、ほとんど全壊だったが、家族は、辛うじて全員無事だった。レスキュー隊が救助してくれた。しかし、愛犬が家の中に閉じ込められている。出ようと思えば出られるだけの隙間があるが、腰を抜かして動けないらしい。レスキュー隊に犬の救助をお願いしたが、申し訳ない、人間の救助が優先ですと断られてしまった。と言うことでした。
職場に戻り、ミーティングで報告をすると、「ワンちゃんを助けよう」と全員一致です。翌日、利用者家族と共に倒壊した家に行きました。確かに、2階部分が1階を押しつぶしている状況です。いつ、余震によって更なる崩壊を誘発するか分からない状態の中、ワンちゃんが力なく吠えていました。家族は、「危険なので、救助はあきらめましょう。」と心と反対のことを言います。
「やります。」と気合を入れて、隙間に身体を入れて、ワンちゃんを引きずり出そうとしますが、ワンちゃんにとっては、初対面の人間であり、その上、腰が抜けているので、頑なに抵抗します。それでも噛みつく力も気力も失っているので、ワンちゃんの前足を掴み無理矢理引き出すことに成功しました。救助成功です。全員、大歓声でワンちゃんの帰還を讃えました。
この家族は、その後、約2か月間、体育館での避難生活を経て仮設住宅に行きましたが、体育館での生活が1か月を過ぎようとしている頃、私は、「気分転換に外食に行きませんか。」と提案しました。阪神・淡路地区は、この世の終わりと言えるような惨状でしたが、被害の及んでいない隣接地域は、普段と何ら変わりない日常を送っているのです。勿論、ファミリーレストランも営業しています。しかし、家族の返事は。「何を馬鹿なことを、店が開いているわけないでしょう。ましてや外食などできるわけがない。」でした。
TV、ラジオ、新聞、掲示板、様々な方法で情報を伝えていたのは、事実です。ところが、避難所の体育館では、TVは1台しかなく、ラジオを持っている人もいましたが、他人への迷惑を考えて、イヤホンで聴いていました。新聞も全員に配布することなどなく一部の人しか読むことはできません。掲示板は、いつも、人の行き来が多く、そこに見に行くのは億劫です。このような状況の中、情報0の人々が生まれたのでした。
最初に登場する看護婦さんは、本当のプロフェッショナルです。自分の位置をしっかりと認識しています。あなたは、社会的に、どの位置にいますか。自分の存在すべき位置を見極めましょう。
さて、情報は、伝わらなければ無意味です。情報0の弊害は、特に緊急時に表れます。子どもたちへの情報伝達を心がけましょう。「人の話を聞いていなかった○○ちゃんが悪い」と言う台詞がありますが、「○○ちゃんに、分かるように伝えられなかった私が悪かった」が正しい台詞です。あなたは、どちらの台詞を使っていますか。
見極める能力
未曾有の大災害、阪神・淡路大震災における利用者の安否確認、避難を手助けすることを最優先し、車両による移動で行いましたが、至る所が渋滞で、なかなか思い通りに安否確認のペースが掴めません。区役所に行き、緊急車両の認定シールを取得し、車両に張っても渋滞では効果がありません。それから、バイクや自転車での移動を行いました。
結果的には、全利用者の安否を確認、数名の家族が入院しているものの生命の危機はなく、とりあえず安心と言った状態でした。その頃の職場には、2組の家族が避難していましたが、困ったのは、お風呂でした。職場の地区は、電気・水道のライフラインが復旧、ガスについては、プロパンガスでしたので、特に支障がありませんでした。しかし、シャワー設備はあっても浴槽がなかったのです。そこで、倒壊したガス販売店に放置してある処分用の浴槽を確保し、運び入れて簡易的な風呂を作りました。みんな、約1か月ぶりの風呂です。最初の頃は、冬にも関わらず、水シャワーで我慢していましたが、その時に比べると天国と地獄ほどの差でした。このことは、全利用者家族にも伝え、それから、数名の家族が入浴に来ました。
職場のメンバーも時が経つに連れて増え、ほとんどの職員が揃いました。その中には、調理員もいました。安否確認は、落ち着きを見せ、次のミッションは、救援活動です。ミーティングでは、様々な意見が飛び交いましたが、鷹取地区の路上で炊き出しをやろうとの意見で一致しました。
翌日から、調理員は、大忙しです。まず、食材の確保からスタートし、200食の豚汁作り、同時並行で施設長を中心に屋台作り、夕方には、鷹取の路上にいました。道行く人に「温かい豚汁を食べて元気を出してください。」と呼びかけます。運動靴に防寒具、背中には、ナップサックを背負っています。そのような出で立ちの方がほとんどでした。「ありがとう。ほっとするわ。」、感謝の言葉と笑顔に私たちは救われました。左前方に約20度傾いたビルがありますが、そのビルの傾きが30度近くになった頃は、2月も終わりに近づいていました。道行く人の出で立ちも、革靴にスーツ、手にはビジネスバック、学生は、制服に戻り、いつもの通勤通学風景になり、炊き出しに立ち止まる人も少なくなっていました。炊き出しのメニューは、豚汁だけではなく、時には、カレーライス、時には、ぜんざいと幾つかのメニューを準備し、最初200食からスタートしましたが150食、100食と数量を減らしていきました。需要に合わせたのです。週3回を目処に始めた炊き出し活動は、2月一杯で終了することにしました。
3月に入ると、ほとんどの地区でライフラインが復旧し、体育館の避難者も少しずつ仮設住宅へと移動していきました。この体育館の避難生活で報道されていない現実がありました。それは、トイレです。まだ、水道の復旧が完了していない時期、学校のトイレは、使用不能でしたが、人間の生理現象を止めることはできず、汚物で溢れていました。校舎の裏に回ると、至る所に汚物が放置されています。環境としては、最悪です。悪臭も漂っていました。私は、思いました。この校舎裏で排便をした人の中には、災害に遭う前は、会社の社長として豊かな暮らしをしていた人もいるでしょう。お上品な奥様もいることでしょう。成績優秀な生徒もいるかも知れません。そのような人たちが自分のプライドをかなぐり捨てて、ここで排便をした事実。誰が責めることができるでしょうか。災害は、一人一人のプライドまでも傷つけたのでした。
3月から通所可能な利用者の方の受入れを開始しました。その頃から私も自宅に戻ることにしました。それまでの1か月半は、自宅に戻っても、それは、水道の復旧している地区でポリタンクに水を入れ、それを届けるだけでした。ただし、次男誕生から1週間後、通常の病院機能では、十分な治療ができるが、ライフラインと人材が整っていない現状では、お子さんの容体を回復することは極めて困難なので、加古川市民病院に移送しますとの連絡が入り、その時ばかりは、病院へ駆けつけました。自分の子どもは、瀕死の状態で、何て不幸なんだとの思いがありましたが、加古川市民病院に到着し、乳児の治療室に入った瞬間、我が息子への不幸感は、消し去りました。もっともっと、大変な状況の乳児たちが懸命に生きていたからです。未熟児として誕生し、私の拳程度の大きさの乳児もいました。身体の一部が変形している乳児もいました。みんな、懸命に生きようとしていました。医療スタッフも真剣に誠実に乳児たちの治療に専念していました。
次男の治療は、順調で、妻は母乳を冷凍し病院に届けていましたが、その母乳を飲めるまでに回復したので自宅へと戻りました。
時の移り変わりで人は、変化します。子どもたちに置き換えると成長します。そして、その状況により、需要も変化するのです。その変化に対応できる柔軟性が求められます。経済的には、需要と供給のバランスと表現しますが、とても、大切なことです。今、その瞬間、子どもたちは何を求めているのか、それを見極める能力を是非、身につけてください。
リセット人生
阪神・淡路大震災の翌年、近所に仮設住宅が設置され、たくさんの方が、引っ越してきました。お年を召した方が90%程度を占めていました。
何か、お役に立てることはないか。職場の中で話し合い、夏場と言うこともあり、仮設住宅敷地内の除草をしようと言うことになりました。勿論、職員と利用者と共に1日30分程度、週3回行うことにしました。早速、仮設住宅の自治会長を探し、その旨伝えると、快く了承されました。
除草作業の始まりです。人が通ったら「こんにちは」の挨拶、次第に顔見知りの方ができてきて、時には、お茶を出して頂くなど、少しずつ馴染んできました。
次は、職場にカラオケの機材があり、「カラオケ大会を開催しますのでお集まりください。」と呼びかけました。20名ほどの方が参加され、和やかな時を持つことができました。そんなカラオケ大会を2年後、皆さんが去っていくまでの間に3回、開催しました。また、マイクロバスを使って、月2回、温泉銭湯にお連れしたりもしました。
さて、そんな中、様々な方からお話を聞くことができました。
90歳代女性は、裕福な家庭のお嬢様でしたが、農家の方を愛してしまい、結婚の了解を両親に得ようとしましたが、猛反対、結果的に勘当されてしまいました。しかし、母は、何か、困ったことがあったときに使いなさいと、着物を数反持たせてくれました。
彼女は、親の反対を押し切って農家に嫁ぎました。今まで、やったことのない、台所仕事、野良仕事、それだけでも大変ですが、姑の嫁いびりは、もっと過酷だったとのことでした。それでも精一杯尽くしていましたが、結婚の翌年、戦争でご主人を失いました。それから、女手一つ※でお子さんを立派な成人に育てあげました。金銭的に困窮した貧しい時代も勿論ありましたが、それでも、母から授けられた着物は、大切にしまっていました。
阪神大震災、人生を掛けて築き挙げた我が家は、倒壊してしまいました。余震も落ち着いた頃、あの着物だけでも手元に残したいと、ボランティアの力を借りて、倒壊した家を調べました。どんなに探しても着物がありません。そうです、火事場泥棒です。後で得た情報では、如何にも、その家の持ち主のように振る舞い、トラックに使えるような物を積み込んでいったと言うことでした。ニュースでは、ほとんど、火事場泥棒の話題は、取りざたされていませんでしたが、実際は、至る所で被害がありました。
唯一の母との思い出の絆、自分が裕福だった頃の記録、どんなに辛くても手放さなかった心の支え、それが、災害ではなく、罪人によって奪われてしまいました。
言葉遣いや仕草が、とても上品ですが、手には苦労の後が鮮明に現れていました。私は、お話を伺い、自然に流れる涙を止めることはできませんでした。
80歳代男性は、古い家屋に住んでいました。大地震により倒壊です。家の壁は、土壁です。土壁は、竹が格子状に組んであり、その上に土(粘土)に藁などを混ぜ粘性を高めた土を塗っています。家は、押しつぶされた形になっており、辛うじて寝た状態の身体分の空間が残されていました。幾ら思い起こしても脱出したときの記憶が定かでないと言うことですが、素手で土壁の泥を剥がし、格子状に組まれた竹を引きちぎり脱出したのだろうと推測できます。覚えているのは、血だらけの身体で家の外にいる自分、身体を引きずるように這って向かった病院への道と言うことでした。病院で診察して貰った結果、肋骨が数本骨折しており、その1本が喉の方に刺さったため、発声が困難になりました。私がお話をお聞きしたのは、回復に向かってからでした。
被災者のお年を召した方々は、最初の頃は、大震災のこと、戦争のこと一様に口を閉ざされていました。そのお話を聞くのに1年半の時の流れがありました。ある方は、戦争中は、中国での諜報活動をしており、中国人に成り済ましていた。中国人の習慣を忠実に模倣し、例えば、当時、中国人は下着を着用する習慣がなく自分も同じように下着を着用しなかったなどの、生々しい話もありました。
「わしらは、神戸大空襲で財産をすべて失い、0からのスタートで、コツコツと財産を築き上げて、余生を過ごせると安堵していたら、今度は、大震災、わしらは、人生を二度奪われてしまった。神戸大空襲が忘れ去られていったように大震災も忘れ去られるだろう。お願いだ、阪神・淡路大震災を後世に伝え続けてほしい。」
私は、「はい」と応えました。その後の私の人生の中で、機会があれば、子どもたちに大震災の話をするように、今でも心がけています。我が家では、1月17日の夕食は、現在でもおにぎりと豚汁です。都市直下型で空前の被害をもたらした阪神・淡路大震災、その教訓は、現代において生かされているのだろうか。
災害によって人生を強制的にリセットさせられた被災者の方々、それでも、そのどん底から這い上がろうともがく姿は、逞しさと共に、尊敬の念を抱かざるを得ません。ここで得られる教訓は、どんな状況でも、心の持ち方で立ち直ることのできる可能性が秘められていることです。子どもたちとのつきあいの中で、時には、子どもとの関係をリセットして、関係構築をやり直したいと望む場合があります。でも、なかなか踏み切れず、関係修復ができません。すべて、心の持ち方で決まります。「人間、成せば成る」これくらいの気概を持って、子どもたちとの関係修復に努めてください。
危機管理体制整備
その日、Uさんは、パニック状態で通所してきました。Uさんは、重度の知的ハンディのある自閉的傾向のある18歳の青年でした。
神戸連続児童殺傷事件、別名、酒鬼薔薇事件の日でした。私は、パニック状態のUさんを落ち着かせ、パニックの原因を探るため、Uさんの通所経路を辿るため外に出ました。原因は、すぐ判明しました。Uさんのこだわりのルートは、T中学校の校門前を通りますが、黄色いテープで防御線が張られ警察官が立っています。つまり、いつもの道を通ることができずパニックに陥ってしまったのです。
上空には、ヘリコプターの爆音が轟いています。このヘリコプターの音を聞くと、2年前の阪神・淡路大震災が蘇り、それだけでも心理的不安を煽ります。
平成9年2月、地下鉄S駅近くの団地で、小学生の女の子2人が学生風の男にハンマーで殴られ1人が重傷を負った事件があり、近辺の小学校では集団登下校するなど緊迫した雰囲気が町を覆っていました。それから1か月も経たない3月、団地内の公園で小学生の女の子がハンマーで殴られ、更に別の女の子が小刀で刺される事件が発生、ハンマーで殴られた女の子は11日後亡くなるという悲惨な事件でした。
町の公園から子どもたちのはしゃぎ声が消え、ひっそりと静まりかえる日々が続きました。
5月、Uさんがパニックで通所した、その日、T中学校の門の前に少年の頭部が置いてあると言う信じ難い事件が起きたのです。警察車両は、付近を巡回し、警察官は厳戒態勢で緊張した面持ち、T中学校の向かい側の高台には、アンテナ搭載のマスコミ車両が数珠つなぎ状態、リポーターが通りすがりの人を引き留めてはインタビュー、騒々しい限りの状態です。私の職場は、T中学校の校門から直線距離にして100mほどの所にあり、その日は、保護者に迎えに来ていただき利用者の皆さんは帰宅して貰いました。
町では、犯人像について様々な噂が飛び交い、その中に事件現場で黒い車が目撃されたと言う噂がありました。被害者児童が住むマンション、真上の部屋が私の担当利用者の住まいであり、事件前日は、その利用者お宅への家庭訪問日、私の黒い日産アベニールをマンション前に駐車していたため、捜査の手が回ってくるかもしれないと危惧していましたが、結局車の件での事情聴取はありませんでした。別件(被害児童の個性に関わるため詳細は明かせない)で、職場の職員名簿の提出を求められました。
犯行現場はコンクリートで固められた山肌を上った高台でしたが、鉄塔があり、その鉄塔を緑色のフェンスで囲んであり、ただ、それだけの場所でした。確かに、人がここへ来る理由は、何も見あたらない、そのような場所でした。
少年A(頭文字)の氏名は公開されないことが原則ですがインターネット上で実名が流れ、顔写真も流布されました。後日、少年Aの自宅が付近の市場価格の6割程度で売りに出されていましたが一向に買手がないとのことでした。
阪神・淡路大震災のトラウマが、やっと癒され始めた頃、この事件が起きて、神戸は、二重の心の傷を負いました。犯人の少年Aが逮捕されるまでの日々、神戸市民、特に保護者の心労は、ピークに達していました。いつ、我が子が被害に遭うかもしれないとの不安は、ほとんど、恐怖に近いものです。
事件は、どこでいつ起こるか分かりません。子どもたちの安全を守るためには、日頃からの備えと準備が必要です。職場の危機管理体制を整えておくことが必要であり、何より、危機の回避方法を子どもたちに日々の生活の中で伝えておくことが重要です。被害に遭ってからでは遅いのです。